三ツ石神社 「岩手」の呼び名について大和物語りによれば「平城天皇の御代にみちのくの国から鷹が献上され帝はこれを岩手と名づけた」とある。 俗説では「三ツ石と鬼の手形」の物語りが岩手の地名や不来方(こずかた)の起源や地名であるといわれている。 伝説によれば、むかしこの地方に羅刹という鬼が住んでいて、付近の住民をなやまし旅人をおどしていた。そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛りつけた。鬼は二度と悪事はしないしまた二度とこの地方にはやってこないこと誓ったので約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやり、それからこの手形のあとには苔が生えないといわれている。 しかし長い年月がたっているので今ははっきりとしません。この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だといわれる。また鬼が再び来ないことを誓ったことからこの地方を「不来方」と呼ぶようになったと伝えられている。 鬼の退散を喜んだ住民達は、幾日も幾日も踊り神さまに感謝のまごころを捧げた。 この踊りが名物「さんさ踊り」の起源だといわれている。「さんさ踊り」の名まえは「さしあげ踊り」、つまりお供え物をして踊るというのが短くなったとか、三十三も踊りの種類があるので「さんさ」というのだとかいろいろの説がある。三ツ石はもと一個の大きな岩であったが長い年月の間に三ツに割れて現在の持つ三ツ石になったものである。 むかしこの地方「愛宕町、名須川町、三ツ割」を三ツ石野とよんでいた。 神社には少名彦尊、稲荷大明神を祀っており増産、医療、縁結びの神さまおして崇敬されている。 慶長四年十月二十四日(一五九九年)、南部二十七代利直公が盛岡に城を移したとき、初代光行公のみたまを三ツ石神社に迎え東顕寺に五十二石を寄進されたのである。その文書は今も東顕寺に保存されている。 この大石の碑は三ツ石の割れた一部分で土中に埋もれていたものであるが社殿新築にあたりこの場に移し由来文を挿入したものである。 昭和四十七年八月二十七日社殿落成日 三ツ石神社奉賛会 (現地案内板より) |
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かつては鬼の手形と呼ばれ、苔が生えない箇所がありましたが近年ははっきりと見ることが出来ません。 |
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現地案内板 |
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ムカデ姫のお墓由来 この墓は南部27代藩主利直の奥方源秀院殿のお墓です。源秀院殿は、蒲生飛騨守氏郷の養妹で、名は於武といって文禄3年(1594)3月、南部家へお輿入れいたしました。その時、蒲生家の祖、俵藤太秀郷が近江の石山で、大ムカデを射止めた時にもちいたと伝えられる矢の根をみやげとしました。その後、利直が亡くなり、於武の方も寛文3年7月26日、江戸桜田の邸で逝去されましたが、姫の遺言によってここに葬りました。当時、お墓の前には濠があって、南部家ではこれに太鼓橋をかけることになりましたが、いよいよ竣工して渡り初めという日に、一夜のうちにその橋がさんざん破壊されておりました。その後、何回かけても橋が壊されてしまうというので、誰いうとなく、「それは大きなムカデが出て橋をこわしてしまうのだ。」といううわさがたち、そのうわさが殿様の耳にも入り、大変不吉なことと考えられました。そこで、殿様は墓参の当日に朝早くからたくさんの武芸者を見張番につけ、数千人の人夫を雇い入れて、一気にその日のうちに工事を終え、やっと橋を完成させました。しかし、その後もこの附近では俵藤太に射られたムカデの怨霊が何百匹となく毎夜のようにはいまわり、姫の百千筋の髪の毛がことごとく蛇に化け、その蛇はみな片目であったといい伝えられております。このことが、また城下の評判となって誰いうとなく「ムカデ姫のお墓」とよぶようになりました。 (現地案内板より) |
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現地案内板 |