◆盛岡市(岩手県)◆
盛岡駅と仙北町駅


(2010年10月23日撮影)
この盛岡の地に鉄道が敷設された明治20年のころ、盛岡駅の設置には紆余曲折があった。当初は、現在の仙北町駅付近(当時の本宮村)に計画されていたが、『汽車に乗って、よその土地から〈流れ者〉が入り込む』やこの一帯は穀倉地帯であったため、『稲や野菜が、汽車の煙で全滅する』といった猛反発にあって断念した。その後、雫石川を越える難工事を理由に仙北町以南から大きく西方にルートを変える(つまり盛岡市を通らない)計画も出されたが、これを知った初代岩手県知事石井氏は、「県庁所在地に汽車が通らなくてはとんでもないことになる」と考え、猛烈に陳情した。

結局は、北上川を挟んで当時の盛岡市の対岸にあった『岩手郡厨川村(くりやがわむら)字平戸(あざひらと)』に盛岡駅を設置することで落ち着き、1890(明治23)年に盛岡駅が開業して、現在に至る。

しかし、この盛岡駅開業によって、駅周辺の河北地区が発展して、それまで盛岡の玄関口として繁栄していた河南地区と仙北町が衰退していくようになった。これに危機感を抱いた地元住民は、今度は駅設置を請願するようになり、1911(明治44)年11月に代表が上京して陳情を行った。時の鉄道院総裁は、盛岡出身の政治家で後に首相を務めることになる原敬。しかし、このときの陳情では原敬より明確な返事をもらうことは出来なかったようで、代表は落胆してきて帰郷したと言います。当時の規則では駅の間隔は4キロメートル以上と決められていたが、盛岡駅と請願している新駅との間はわずか1.8キロメートルしか無く、駅設置は無理だったのである。しかし、まもなく鉄道の測量隊がやってきて、1915(大正4)年1月5日に仙北町駅が開業した。このことから、仙北町駅は原敬の職権によって設置されたのだと言われるようになる。

かりに仙北町付近に盛岡駅が設置されたら、現在進められている盛南開発が明治時代に進められていたのだろうし、太田地区、都南地区、矢巾地区や周辺の山々も含めて広域的な都市が形成され、いまとは違った盛岡市ができあがっていたに違いない。

http://homepage3.nifty.com/harakeijiten/page012.html
http://www.morioka-times.com/news/0412/19/04121906.htm
盛岡駅

盛岡駅東口(開運橋方面)

盛岡駅南口(開運橋方面)

2002年に東北本線の八戸延伸に伴い、並行在来線の東北本線盛岡〜八戸間がJR東日本より経営分離されて第三セクター化され、岩手県側がいわて銀河鉄道(IGR)、青森県側が青い森鉄道になった。ここは盛岡駅東口にあるIGR盛岡駅入口。

盛岡駅西口
仙北町駅
(2009年11月3日(火)撮影)

駅舎


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