啄木が妻節子と新婚生活を送った家です。帷子小路と呼ばれたこの地で1905(明治38)年6月に住み始め、新婚生活を送りましたが、両親と妹との共同生活や貧しい生活に追われ、わずか3週間で盛岡市加賀野磧町に転居してしまいました。 現在は一般に無料開放され、新妻節子が愛用した琴、啄木の直筆の書や写真が展示されています。 この建物は藩政時代の中級武士の住む武家屋敷で、かつては茅葺きであった。ちなみに、現在の日本の標準的な一戸建ては中級武士の武家屋敷の影響を受けているため、この建物は資料的にとても興味深い建物で、1984(昭和59)年7月1日より、盛岡市指定有形文化財(建造物)となっています。 随筆「我が四畳半」はこの家の4畳半の書斎が舞台なっている。
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啄木新婚の家 (2010年11月20日撮影) |
(2002年9月撮影) |
間取り |
啄木が結婚式を挙げた8畳の部屋 |
左手に展示されているのは、妻節子愛用の琴。 |
手前が4畳半の書斎、奥が啄木夫婦の2畳間の部屋。 |
書斎で啄木夫妻が新婚生活を送った部屋。かつては茶室であった。随筆「我が四畳半」はここが舞台なっている。 |
「銀座の柳二世」。銀座の並木だった柳を挿し木して育成し、二世三世としてよみがえらせたものだそうです。かつて啄木は東京銀座の朝日新聞に校正係として働いていた。その縁から、中央区より盛岡市に寄贈された。 |