◆盛岡市(岩手県)◆
米内光政墓所(円光寺)


(2010年10月23日撮影)
旧盛岡藩士米内受政(よないながまさ) の長男として1880(明治13)年3月2日に盛岡に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対し、この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる第37代内閣総理大臣に就任するが、陸軍の反対に遭い半年後に内閣は瓦解。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、次の終戦内閣である鈴木貫太郎内閣でも海軍大臣として留任し、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。1948(昭和23)年4月20日肺炎により死去。実際は、長年の高血圧症に慢性腎臓病の既往症があり、さらに帯状疱疹にも苦しめられるなど身体的には満身創痍状態だった。

ちなみに、米内は終始一貫して日独伊三国同盟締結に反対して対米戦争を回避しようとした、「良識の提督」として知られる一方、1937(昭和12)年の日中戦争では戦線拡大を支持し停戦の機会を失わしめた張本人の一人であることから、名将なのか愚将なのか判断が分かれる人物でもある。


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