◆紫波町(岩手県)◆

◆2020年6月28日(日)、7月19日(日)撮影◆
 紫波町(しわちょう)は、盛岡都市圏の南部、岩手県の中部に位置する紫波郡の町である。
 紫波町は、盛岡市のベッドタウンとして、人口が増加している。
 総人口は32,019人(推計人口、2020年6月1日)。
Wikipediaより)
志賀理和氣神社(しがりわけじんじゃ/しかりわけじんじゃ)
 社伝では、804(延暦23)年に坂上田村麻呂が、東北開拓守護神として経津主命(香取神)・武甕槌命(鹿島神)を勧請したことに始まるという。 9世紀初頭において、一帯では志波城造営(803年)・斯波郡(紫波郡)建置・徳丹城造営(811年)などの開拓が進んでおり、当社も蝦夷平定の報謝と一帯の鎮護のため、その時期に創建されたと見られている。 奥羽の式内社では地主神を包摂しつつ中央神を勧請して創建される例が多いが、当社がその場合にあたるかは明らかでなく、神名「志賀理和気」の由来も定かではない。
 国史での初見は、852(仁寿2)年に「志賀理和気神」の神階が正五位下に昇叙された旨の記事であるが、内容からして仁寿以前から神階を有する官社であったと見られている。
 927(延長5)年成立の『延喜式』神名帳では陸奥国斯波郡に「志賀理和気神社」と記載され、式内社に列している。斯波郡では唯一の式内社で、全国の式内社では日本最北端に位置する。
 律令制の崩壊ののち中世の史料はなく、その頃の様子は詳らかでないが、式内社であることも忘れられるほど荒廃していたと見られ、近世初頭には赤石を神体としたことに由来して「赤石大明神」と称されていた。
 紫波町に初秋を告げる志賀理和氣神社の例大祭。神社の境内と町の中心部で行われ、様々な芸能が披露される。それぞれに見応えがある山車は4台あり、町を練り歩き地元の商店街を賑わせる。 寛政年間に京都で造られた総ひのきの御輿の渡御も豪華絢爛。 また、乗馬5頭、沿岸地域の虎舞、鹿踊り、星山神楽、赤沢神楽などが参加する総勢約二千人の大行列も開催。町の中心部の商店 街では沢山の屋台が出て賑わいをみせる。
 参道の古い桜並木(ヒガンザクラ群)は町指定の天然記念物になっています。南面の桜にまつわる恋の伝説もあります。
紫波町観光交流協会HPWikipediaより)

新しい社殿の予想図。

「紫波」の名前の由来となった「赤石」。
この赤石に関する伝承として、高水寺城主の斯波詮直が当地を通った際、北上川の川底に赤石があって水波が紫色に漂うので「けふよりは 紫波と名づけん この川の 石にうつ波 紫に似て」という歌を詠んだという。これに因んで郡名は「紫波郡」、社名は「赤石大明神」と称されたといい、引き揚げられた赤石は現在も境内に祀られるものだとしている。

南面の桜

現地案内板

訪問時、新しい社殿が造営中でした。
五郎沼
 奥州藤原氏初代清衡の孫桶爪太郎俊衡、五郎季衡兄弟の館(樋爪館)が近くにあり、五郎がこの沼で遊泳していたことからその名がつけられたといわれています。

現地案内板(1)
五郎沼の古代蓮の事についての説明板です。

現地案内板(2)
隣接する樋爪館についての説明板です。

五郎沼全景

訪問時、古代蓮が見頃でした。
この古代蓮は平泉の中尊寺に安置されている奥州藤原氏4代の泰衡の首桶の中から1950(昭和25)年の学術調査で発見された蓮の種を1993(平成5)年から栽培し、1998(平成10)年7月に一輪だけ華を咲かせることに成功。その後1999(平成11)年に中尊寺が10株ほどを譲り受けて栽培。その後2002(平成14)年に五郎沼に株分けされた。
中尊寺の千田孝信貫首によると「泰衡と親戚関係にある樋爪氏の五郎沼に咲いていたハスの花」と断言し、「樋爪氏ゆかりの夫人が同町陣ヶ岡でさらし首にされた泰衡に、種子を手向けた」という見方を示した。

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