◆仙台市(宮城県)◆

仙台市は、宮城県の中南部に位置する市である。江戸時代は伊達藩62万石の城下町として栄え、明治時代以降は県庁所在地となり、東北地方では唯一の政令指定都市である。広瀬川や青葉山などの自然が都心にあり、また街路樹などの緑が多いことから、「杜の都」としても知られる。人口は1,029,595人(推計人口、2007年12月1日)

2010年11月23日(火)、12月23日(木)、2018年3月3日(土)、6月16日(土)撮影
仙台城
瑞鳳殿
仙台市博物館中庭(仙台城三の丸跡)
光のページェント
陸奥国分寺
陸奥国分尼寺
2003.6.21(土)〜22(日)の仙台コミケ参加の顛末
仙台城
 仙台城は伊達氏が藩主を務める仙台藩62万石の居城である。現在の城は慶長年間に伊達政宗が築造したものであり、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。国の史跡に指定されている。

詳細はこちらを参照→(お城のページ)仙台城
瑞鳳殿
 仙台藩祖伊達政宗は生前に自らの死後は、遺骸を仙台経ヶ峰に葬ることを遺言し、1636(寛永13)年に没した。政宗の後を継いだ二代藩主伊達忠宗は、政宗の遺言に従い、翌1637(寛永14)年10月政宗の御霊屋(おたまや、霊廟)を建立し瑞鳳殿と命名した。瑞鳳殿は、本殿、拝殿、唐門、御供所、涅槃門からなり、桃山文化の華麗な建築を誇った。1931(昭和6)年には国宝に指定された。
 しかし、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月10日、仙台はアメリカ空軍による戦略爆撃(仙台空襲)を受け大きな被害を受ける。瑞鳳殿も仙台空襲により焼失した。この時、二代忠宗を祀る感仙殿(かんせんでん)、三代綱宗の善応殿(ぜんのうでん)も共に焼失した。
 瑞鳳殿再建は戦後になって議論された。1974(昭和49)年再建工事に先立ち、跡地の発掘調査が行われて伊達政宗の遺骨や副葬品が出土している。
 1979(昭和54)年再建工事により本殿、拝殿、涅槃門、御供所および感仙殿、善応殿が再建された。発掘調査の出土品を展示するために唐門脇には瑞鳳殿資料館が建設されている。
 なお、政宗から三代以降は、主に大年寺山の茂ヶ崎城跡近くの伊達家墓所に埋葬されている。

入り口付近にある住居表示。「霊屋下(おたまやした)」となっている。

振り返って撮影。瑞鳳殿は高台の上にあるので、上り道をあがっていきます。

瑞鳳殿の正面門に当たる涅槃門(1979(昭和54)年再建)。

涅槃門に菊の紋章がありますが、これは伊達政宗が豊臣秀吉から拝領されたもの。
菊の紋章は江戸時代までいろいろなところに使用されていたが、1869(明治2)年8月25日の太政官布告第802号により皇族の家紋と制定され、さらに1871(明治4)年6月17日の太政官布告第285号で、皇族以外の菊花紋の使用が禁止された。

瑞鳳殿(1)(ずいほうでん)(初代正宗(1567生〜1636没)墓所)(1979(昭和54)年再建)

瑞鳳殿(2)
紋に伊達家の家紋「竹に雀」が施されている。

瑞鳳殿(3)

瑞鳳殿(4)

瑞鳳殿隣に立つ満海上人(まんかいしょうにん)供養碑。当時羽州(山形)で聖人として有名だった高僧。政宗公と同じ隻眼であったため、政宗は満海上人の生まれ変わりとして育てられたと伝えられる。政宗公の死後、遺言によりこの経ケ峰に墓所を建設しようとしたところ、地中から満海上人の墓が出土したという。
感仙殿(1)(かんせんでん)(二代忠宗(1600生〜1658没)墓所)(1979(昭和54)年再建)
感仙殿(2)

感仙殿(3)

善応殿(1)(ぜんのうでん)(三代綱宗(1640生〜1711没)墓所)(1979(昭和54)年再建)

善応殿(2)

善応殿(3)
仙台市博物館中庭(仙台城三の丸跡)

仙台市博物館中庭に立つ『初代の』伊達政宗騎馬像。1935(昭和10)年製作で、戦時中の金属供出に出され、騎馬と政宗公の下半身は溶かされて失われたが、胸像部分は奇跡的に残された。

台座にはこう記述されている(原文のまま)
伊達政宗像
 この像は現在青葉城跡にある政宗公騎馬像の最初のものであって第二次世界大戦中軍に徴用されたものの騎馬部分のみ溶解されこの部分は終戦後塩釜市内に打棄てられてあった
 幸い郷土史家故石川謙吾氏がこれを発見し私費を投じて購い青葉神社に奉納したものを石川氏のこ意志により神社側の了解のもとに本館に移したものである

仙台市博物館中庭に立つ中華民国の文豪魯迅像(2001(平成13)年設置)。魯迅は1904年から2年間仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学していた。
光のページェント
このたびの目的の一つ。光のページェントを見に行ってきました。
番外編。仙台と言えば牛タン。ということで夕食は牛タンを食べてきました。

まずは日本酒。銘柄はたしか「浦霞」の純米酒。

牛タンのタン塩焼き。

牛タンの刺身。
陸奥国分寺
 聖武天皇の発願によって建立された国分寺の1つで、奈良時代の740年代頃に創建された。平安時代まで陸奥国の財政的支持を受けて大伽藍を維持したが、室町時代には著しく衰微した。真言宗になった時期は不明。17世紀初めに伊達政宗により再興され、仙台藩の保護の元、1607年に再建された薬師堂を中心に25坊を擁する大寺院として栄えた。明治時代に仙台藩の保護を失い、また廃仏毀釈の流れによって、僧坊は1つを残して廃絶したが、薬師堂をはじめとする中心堂宇は維持された。
 薬師堂は国の重要文化財に、古代の寺院跡は国の史跡に指定されている。薬師堂の南西の准胝観音堂(準胝観音堂)は、江戸時代に設定された仙台三十三観音の第25番札所である。
Wikipediaより)

現地案内板より
左が国分寺、右が国分尼寺。

正面

天平回廊(1)
創建時の回廊を復元したもの。

天平回廊(2)

南大門跡に建つ仁王門
1607(慶長12)年建立

仁王門には寺院守護の神として安置する一対の金剛力士像が安置されている。こちらは口を開けた阿形(あぎょう)の木像。

もう一対は口を閉じた吽形(うんぎょう)の木像。

中門跡

袴腰鐘楼

鐘楼跡

薬師堂
1607(慶長12)年建立

七重塔跡
934(承平4)年閏1月15日に雷火で焼失と「日本紀略」に記録されている。

境内にある白山神社
創建時期は不明だが、室町時代と言われる。
陸奥国分尼寺
 741(天平13)年の聖武天皇の詔で創建された国分尼寺の寺基を継ぐと伝える寺院である。陸奥国分寺(僧寺)から東約700メートルの地に位置し、現在の境内一帯は古代の国分尼寺の遺構と重複する。
 現在の国分尼寺の寺伝では元は天台宗であったというが、中世には荒廃していた。中世末期に一帯を支配した国分氏によって国分僧寺とともに再建され、1570(元亀元)年に明屋梵察和尚により再興された際に曹洞宗に改めている。江戸時代には仙台藩主の伊達家から保護を受け、以後現在まで法燈を伝承する。
 なお、現在の境内墓地には、1602(慶長6)年に尼寺で自決したという和賀郡領主の和賀忠親主従の墓が残る。
Wikipediaより)

現在の国分尼寺

現地案内板

金堂跡(1)

金堂跡(2)

現地案内板

国分尼寺北にある遺跡調査場所。

2003.6.21(土)〜22(日)の仙台コミケ参加の顛末
仙台行きの高速バス
仙台駅前のアエル
仙台駅
宿泊した宿
JR多賀城駅
仙台コミケ会場の夢メッセみやぎ(1)
夢メッセみやぎ(2)

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