岩美町(いわみちょう)は、鳥取県の最北端に位置する町。岩美郡に属す。 町の中央を蒲生川が流れ、日本海に面する東西およそ15kmのリアス式海岸は浦富海岸と呼ばれる。人口は10,919人(推計人口、2019年10月1日)。 (Wikipediaより) |
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浦富御台場跡 国指定史跡 平成10年12月8日指定 幕末、黒船渡来による未曽有の国難に遭遇した江戸幕府は、開国か攘夷かに国論を二分したが、文久2年(1862)、朝廷は攘夷を決定、鳥取藩でも海辺防備のため、因・伯海岸の要地に台場の構築を急いだ。文久3年(1863)、10月頃までには野戦台場も含め11の台場に大砲の配備を完了している。 台場砲は、現大栄町(当時六尾(むつお)村)の反射炉で鋳造した鉄製のもので大小の種類があったが、浦富台場には4門を配置、家老鵜殿長道(うどのながみち)の持場であった。 台場の築造は、在方では農民の労役に頼ったが、守備もまた農兵(民兵)を組織し、洋式訓練を行っている。元治元年(1864)の「岩井郡(いわいごおり)海辺村々絵図」によると、浦富台場は他にもう一箇所あったようである。西に約400米の同一線上にあり、浦富陣屋から海岸に向かって真直に当時の道が通じている(図)。現在この遺構は残されていないがその形は凹形のものである。今もここはやや小高い地形となっている。 安政4年(1857)には、岩井郡(ごおり)で64名の「力者隊(りきしゃたい)」の編成名簿もあり、文久3年頃になると庄屋を民兵隊長として郷士に取り立て、名字帯刀をも許し、国難に立ち向かう態勢を整えたのである。現在、県内に残る台場はわずか五か所(橋津・由良・淀江・境・浦富)である。 この浦富台場(東西の長さ約92m、南北40m、高さ4m、塁上の最大幅員13mの両翼開放型であたかも鳥が羽を開げた形である)は、県東部(因幡地区)に残る唯一のものであり、近代城郭史上からもその歴史意義は大きい。 岩美町教育委員会 (現地案内板より) |
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入口は2ヵ所あります。こちらは海側から。 |
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もう一方は陸側から。 |
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全景 |
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鶴翼形(M字型)になっているのがわかります。 |
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海岸を一望出来ます。 |
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休憩所が整備されています。 |
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現地案内板 |
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現地案内板を一部拡大。当時の浦富村のの様子がわかります。左上の台場が現存するものです。 |