天童市(てんどうし)は、山形県東部にある人口約6万2千人の市。将棋駒と温泉のまちとして知られ、近年は山形市のベッドタウンとして発展している。県内人口5位。
総人口は61,803人(推計人口、2021年11月1日)。 (Wikipediaより) |
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旧東村山郡役所資料館 1878(明治11)年7月22日、『郡区町村編成法』という法律ができ、山形県が11の郡に分けられ、東村山郡には、天童をはじめ98の村々が含まれた。東村山郡役所は、1879(明治12)年10月に落成し、11月16日に開庁式が行われた。 創建当時の建物は、3階に塔屋をもつ瓦葺漆喰白壁の洋風建築で、山形県に残るものでは最も古い時期のものに属する。 この建物は、1891(明治14)年の明治天皇東北巡幸の際には昼食の行在所として使用された。 1899(明治32)年以前には2階建に改装されていたが、1985(昭和60)年に解体復元工事が行われ、明治12年当時と同じように3階建の、漆喰壁、瓦ぶき、ステンドグラスなど美しい姿を取り戻し、昭和61年に、資料館として生まれ変わった。1972(昭和47)年9月4日、山形県有形文化財の指定を受けた。 天童織田の里歴史館(天童市立旧東村山郡役所資料館)施設紹介 山形県 |
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内部 |
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2階からの眺め。 |
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敷地内にある「明治天皇天童行在所」。1891(明治14)年9月の明治天皇東北巡幸の記念に建てられ、郡役所は昼食の行在所として使用された。 |
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現地案内板 |
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観月庵 織田信長の子信雄を祖とする天童織田藩は、天保二年(一八三一)から維新までこの地にあった。 幕末の頃、戊辰戦争という大変革の中で、天童織田藩は官軍(新政権)による奥羽鎮撫先導役を命ぜられ、幼少の藩主に代わって家老の吉田大八が役目を行った。しかし、奥羽の情勢が一変し官軍に対抗する奥羽列藩同盟に参加することになったために、大八は藩の責を一身に負い、慶応四年(一八六八)観月庵において自刃した。その折、大八の血が天井まで染めたと伝えられ多数の資料とともに保存されている。 昭和六十三年十月 天童市教育委員会 |
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現地案内板 |
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