米沢城址・上杉神社 | |
本丸の堀 |
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上杉謙信祠堂跡『御堂(みどう)』 |
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米沢藩中興の祖として知られる9代上杉鷹山(治憲)公像。 |
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13代上杉曦山(斉憲)公の碑 |
上杉謙信像 |
藩政時代の米沢城下絵図 (2017年6月25日(日)撮影) |
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現在の松岬公園。本丸と二の丸の一部が残されています。 (2017年6月25日(日)撮影) |
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二の丸跡に建てられている米沢市上杉博物館 (2017年6月25日(日)撮影) |
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米沢藩の領土変遷(30万石時代)(米沢市上杉博物館展示より) (2017年6月25日(日)撮影) |
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米沢藩の領土変遷(15万石時代)(米沢市上杉博物館展示より) (2017年6月25日(日)撮影) |
上杉伯爵邸 1896(明治29)年、元米沢城二の丸跡に上杉家14代茂憲(もちのり)伯爵邸として建てられた。当時は敷地約5,000坪、建坪530坪という壮大な大邸宅でした。しかし、1919(大正8)年米沢大火で類焼し焼失。1925(大正14)年に、胴板葦き、総ヒノキの入母屋づくりの建物と、東京浜離宮に依って造園された庭園が完成した。 |
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米沢高等工業学校 1910(明治43)年に設立された旧制専門学校(実業専門学校)。1910年7月竣工の旧制米沢高等工業学校本館は、1973年に国の重要文化財に指定された。 |
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春日山林泉寺 上杉家・直江兼続の菩提寺。上杉景勝公が1598(慶長3)年に越後高田から会津120万石に移封、さらに1601(慶長6)年米沢30万石削封にともなって、1617(元和3)年米沢の現在地に移った。 現在の伽藍は、1732(享保17)年9月に火災に遇ったのちに再建されたもの。 |
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山門。上杉治憲(鷹山)公の家老で藩政改革で活躍した竹俣當綱(たけのまた まさつな)の屋敷の門を1902(明治35)年に移築したもの。 |
伽藍 1732(享保17)年9月に火災に遇ったのちに再建されたもの。 |
直江墓所 上杉謙信公・景勝公の信任篤かった直江山城守兼続と妻お船夫妻の墓。 |
武田信玄の6男、信清の墓 武田家滅亡後上杉家を頼り高家衆筆頭で迎えられた。 |
侍大将、長尾権四郎家の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
3代定勝公に殉死した三股隼人吉親の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
謙信公股肱の臣 秋山源蔵の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
林泉寺の庭園(1) (2017年6月25日(日)撮影) |
林泉寺の庭園(2) (2017年6月25日(日)撮影) |
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上杉家廟所 (2017年6月25日(日)撮影) |
3代定勝公室鍋島夫人市姫の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
上杉謙信公姉君、2代景勝公実母、綾御前 仙洞院の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
4代綱勝公室、老中保科正之の娘、会津夫人 媛姫の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
鷹山公後室 お豊の方の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
綱憲公5男、分家祖 米沢新田一万石 上杉駿河守勝周の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
2代景勝公正室 甲州夫人 菊姫の墓 (2017年6月25日(日)撮影) |
上杉家10代鷹山公お手植えのしだれ桜 |
上杉家廟所 (2017年6月25日(日)撮影) 山形県米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所である。当初は米沢城に安置された初代謙信公の御堂の避難所として建てられましたが、2代景勝公死後、歴代の藩主の墓所となりました。明治時代になり1873(明治6)年の廃城令によって解体された米沢城より1876(明治9)年に初代謙信公の墓所を現在地に移動し、現在の形となりました。 初代謙信公より12代斉定、藩主ではないが、治憲の実子で十代治広の養嗣子であった顕孝が祀られる。また14代茂憲は沖縄県令としての功績を称えられ、記念碑が建てられている。 謙信公を初代として中心に据え、左側が偶数代、右側が奇数代の当主の祠堂が配置されています。 |
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廟所入口 |
廟所内にはたくさんの樹木がありますが、藩政時代のものと明治時代以降のものが混在しています。 |
廟所参道 |
初代謙信公の祠堂 |
右側の祠堂。奇数代の当主(藩主としては偶数)が祀られています。 |
左側の祠堂。偶数代の当主(藩主としては奇数)が祀られています。 |
2代(米沢藩主としては初代)景勝公の祠堂 |
10代(米沢藩主としては9代)治憲(鷹山)公の祠堂 |
餐霞館(さんかかん)遺跡 (2017年6月25日(日)撮影) 上杉鷹山(第9代米沢藩主)が隠居後に住んだ「餐霞館」のあった場所。本城の南に位置するため「南亭」とも称された。 1785(天明5)年に35歳で隠居してから1822(文政5)年の逝去まで、鷹山は38年間この館に住み次代の藩主治広と斉定の政務を後見、陰ながら藩政改革を指導し成功に導いた。 有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の和歌は、餐霞館の壁に示したものである。 鷹山逝去後は支侯上杉駿河守の邸宅となり、1970(昭和45)年に鷹山公初入部200年を記念し庭園が整備され、鷹山のレリーフをあしらった顕彰碑が建てられた。 (現地案内板より) 土地の広さは約3,000坪で、餐霞館は上段・二の間・寝間・書斎や奥方の部屋など40あまりの部屋がある大きな平屋の建物で、現在公園として整備された部分は旧餐霞館の東南の一部にあたります。 |
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