◆天昌寺(厨川柵擬定地)(岩手県盛岡市)◆

◆2010年9月3日(金)撮影
 天昌寺のある天昌寺台地は古くから、11世紀の安倍氏の厨川柵(くりやがわのさく)跡の有力な候補地の一つとして知られるが、安倍氏の柵跡については、今のところ不明のままである。江戸時代から明治時代までは、北西に位置する安倍館遺跡が厨川柵とされていた。しかし、大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵として、天昌寺台地を中核部分として、安倍館遺跡は支城的な役割と想定される嫗戸柵とする見解が示されている。

現在この地に立つ天昌寺は曹洞宗の寺。山号は岩手山を示す「岩鷲山」。かつては天台宗天晶寺を号した。安倍氏が厨川柵に祀っていた祈願所が発祥と言われる。現在では前九年の役で敗れた安倍氏一族郎党の菩提を弔う。

(安倍氏時代(〜1062年頃))
 平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族であった安倍氏は、勢力を次第に拡大し、北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる広大な地域に影響力を発揮していた。厨川柵と嫗戸柵はこうした領土の支配拠点として整備されていった。
しかし朝廷と次第に対立するようになって、前九年の役(1051年〜1062年)が勃発する。安倍一族は朝廷の討伐軍を率いる源頼義の軍勢と戦い、1062(康平5)年に厨川柵で滅亡した。

厨川柵の案内説明板

厨川柵擬定地の碑

上記説明板の右手には堀の跡と思われる段差がありました。

厨川柵擬定地に立つ曹洞宗天昌寺。安倍一族の菩提を祀っています。
所在地:岩手県盛岡市天昌寺町

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