天昌寺のある天昌寺台地は古くから、11世紀の安倍氏の厨川柵(くりやがわのさく)跡の有力な候補地の一つとして知られるが、今のところ不明のままである。江戸時代から明治時代までは、北西に位置する安倍館遺跡が厨川柵とされていた。しかし、大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵として、天昌寺台地を中核部分として、安倍館遺跡は支城的な役割と想定される嫗戸柵とする見解が示されている。 (安倍氏時代(〜1062年頃)) 平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族であった安倍氏は、勢力を次第に拡大し、北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる広大な地域に影響力を発揮していた。厨川柵と嫗戸柵はこうした領土の支配拠点として整備されていった。 しかし朝廷と次第に対立するようになって、前九年の役(1051年〜1062年)が勃発する。安倍一族は朝廷の討伐軍を率いる源頼義の軍勢と戦い、1062(康平5)年に厨川柵で滅亡した。 (清原時代・奥州藤原氏時代(1062〜1189年頃)) この時代の厨川柵跡および嫗戸柵についての記録が残されていないため、城柵として機能していたのかどうかは不明である。 (工藤氏時代(1189〜1592年頃)) 1189(文治5)年、源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼした(奥州征伐)。この奥州征伐の勲功により伊豆国から御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とした。その後、工藤氏は厨川の地に土着して代々地頭職を勤め、「岩手殿」とも呼ばれた。 当初、工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていたが、次第により堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれた。 厨川城自体は1332(元弘2年、正慶元)年に南部家に臣従したあとも厨川氏が城主を勤め、1592(天正20)年の豊臣秀吉による一国一城令によって取り壊されるまで続いたと見られる。この城は取り壊しまで、不来方城 (後の盛岡城)、雫石城とともに、岩手郡の拠点的な城の一つであった。 |
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厨川柵ゆかりの場所 ・安倍館遺跡(中世厨川城址)(嫗戸柵有力地) ・天昌寺(厨川柵擬定地) ・敵見ヶ森(かたきみがもり) |