二本松城(福島県二本松市)

◆2014年2月9日(日)、2014年9月15日(月)撮影
 二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城で、中世から近世まで同じ場所で存続したまれな城跡である。江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城となった。
 最初にこの地に拠点が築かれたのは、室町時代初期の1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年) 室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に最初の居を構えたのが最初で、同時にこの地を二本松と改称した。畠山氏はその後土着して二本松氏を名乗るようになり、畠山氏7代当主・二本松満泰が、1414(応永21)年もしくは嘉吉年間(1441年〜1443年)にこの地に二本松城を築いた。
 1586(天正14)年に伊達政宗により二本松氏が滅ぼされ、いったんは伊達領となるが、豊臣秀吉の奥州仕置によって会津領に組み入れられ、蒲生氏、後に上杉氏の支城として城代が置かれた。その後、松下、加藤氏を経て、1643(寛永20)年に丹羽光重が白河より10万700石で移封され、以後丹羽氏二本松藩の居城として明治維新に至る。
 ちなみに、丹羽氏は織田信長の家臣として台頭し、丹羽長秀は一時は123万石の大大名となった名門であったが、その後豊臣秀吉や徳川家康に警戒され、石高を大幅に減らされたものの、信長の主要家臣の中で大名として残ったのは丹羽氏以外無かった。丹羽氏二本松藩の祖である丹羽光重は丹羽長秀の孫に当たる。
 現在見られる城は丹羽光重が10年の歳月をかけて築城したものである。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦った。7月29日、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か1日の戦闘において落城した。手薄になった攻城戦においては少年兵からなる「二本松少年隊」も動員され、後に語り継がれる悲劇が生まれた。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。
 その後、城跡には二本松製糸会社(後の双松館)が1873(明治6)年に建設され、二本松の近代化に大きな役割を果たした。現在は、「霞ヶ城公園」として整備され、1982(昭和57)年に箕輪門が復元され、1993(平成5)年からは本丸の石垣が復元された。

箕輪門前にある二本松少年隊銅像(2014年9月15日(月)撮影
2014年2月9日(日)撮影
2014年9月15日(月)撮影

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