鳥取城(鳥取県鳥取市)

◆2022年10月8日(土)撮影
 鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城である。国の史跡に指定され、別名は久松城(ひさまつのしろ)・久松山城(ひさまつやまのしろ)という。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が後に『鳥取城の渇(かつ)え殺し』と言われる程凄惨な兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている。

 戦国時代中頃の天文年間、因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

 分かっているだけで、山中幸盛に2度、吉川元春に2度、豊臣秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があった。

 近世城郭への改修は、関ヶ原の戦いの近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、6万石で入封した池田長吉(池田氏)によってはじめられ、1617(元和3)年、さらに姫路藩主42万石の池田光政が幼少を理由に因幡・伯耆32万5,000石の減転封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。光政によって城下町の整備も行われたという。その後、ふたたび備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて1632(寛永9)年池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えた。

 城は、1873(明治6)年に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第4軍管に属した。1876(明治9)年鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点より、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、1877(明治10)年より1879(明治12)年にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して解体された。最後に取り壊されたのは、鳥取城を象徴する建物となっていた二の丸の御三階櫓だったという。唯一現存していた中仕切門も1975(昭和50)年3月に大風によって倒壊したが同年秋に再建された。現在は天守台、石垣が残っており、国の史跡に指定されている。昭和44年から昭和51年まで、山麓北西から観光用のロープウェイが運行されていた。

 1993(平成5)年、鳥取城正面入口に吉川経家の銅像が建立された。2006(平成18)年4月6日、日本100名城(63番)に選定された。

 標高263メートルの久松山(きゅうしょうざん)頂の山上の丸を中心とした戦国時代の山城部、江戸時代の山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などの平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができる。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城跡である。

 山上の丸の天守櫓は1692(元禄5)年に落雷のため焼失してしまい、再建されることはなかったが、そのほかの建物は明治時代初めまで残っていて、麓の二の丸にある三階櫓が鳥取城を象徴するものとなり、1879(明治12)年の解体までその威容を示していた。

(参考サイト:wikipediaなど)

山下ノ丸
(現地案内版より)

二ノ丸
(現地案内版より)

山上ノ丸
(現地案内版より)

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