1947(昭和22)年2月25日 7時50分 八高線東飯能駅〜高麗川駅間の20‰下り勾配で、超満員(屋根の上に乗客を乗せざるを得ないという異常ともいえる運転状態が常態化していた)の乗客を乗せた八王子発高崎行き(C57形79号機牽引、客車5両編成)の下り普通3列車が、過速度により半径250mの曲線を曲がりきれずに後部4両が脱線し、築堤上から5.6m下の畑に転落。客車の木造車体が大破し、184名が死亡し495名が負傷するという大事故となった。 死傷者の大部分は食料買出し目的の乗客だった。列車は超満員の乗客によって加重されたことにより、下り勾配で十分なブレーキが効かず、車両は事故の直前、左右に激しく揺れていた。 184名という死者は1940(昭和15)年1月に発生した西成線列車脱線火災事故に次ぐものであり、負傷者と合わせた被害者数では当時最悪の鉄道事故だった。 この事故で、事故車両が木造客車だったために被害が拡大したことからその脆弱性が問題視され、木造車の淘汰が決定したが、鋼製客車の新規製造のみによる置き換えはコスト的に困難だったため、木造客車の台車と台枠を再利用し、その上に鋼製車体を載せる鋼体化改造が実施されることになった。 (Wikipediaより) |
高麗川駅より東飯能側へ歩いて10分ほどで到着。周辺は人家と畑に囲まれて、慰霊碑はひっそりと建っています。 |
現在の石碑は昭和54年に建立したものです。 |
ちょうど電車が通過しました。緩やかな曲線になっているのが分かり、これが脱線転覆の原因となりました。 また写真ではわかりにくいのですが、東飯能(写真右)〜高麗川(写真左)にかけて20‰の下り勾配となっています。 |