JR花輪線十和田南駅の謎について

◆2011年5月3日(火)撮影
 この十和田南駅は、現在では珍しくなったスイッチバック駅である。スイッチバックとは、急勾配の斜面を列車が登るためにつづら折り状にして勾配を緩和させたり、狭い土地に駅や線路を設置しなければならないときにとられた方式である。特に現在の電気式電車に比べ、非力であった蒸気機関車が急勾配斜面を登るためには必要不可欠で、全国のあちこちに設置された。

 しかし、この十和田南駅は、山の中にあるわけでもなく、土地が狭いわけでもない。むしろ平坦な土地にある駅である。スイッチバック方式はいろんな不利な点がある。例えば、十和田南駅を停車せずに通過する快速列車を設定出来ない、電車の方向転換が必要で、蒸気機関車時代は蒸気機関車の方向転換をする転車台が必要で、それだけの設備を維持したり運営したりする人員の配置が必要となるなどである。

 結論から言えば、現在は行き止まりとなっている北方向に路線を敷く計画があったためである。実際、現在も駅の北に向かって200mほど続く線路の先に、さらに300mほどゆるいカーブの築堤が伸びてるのがその名残と言われる。

 この地に鉄道が敷かれたのは1920(大正9)年で、秋田鉄道によるもの。この秋田鉄道は大館市に本拠を置く民間企業で、尾去沢鉱山で採掘された鉱石を運ぶ鉱山鉄道の性格を持った鉄道でもあった。
鹿角市史によれば、十和田南駅を中央駅として、鹿角方向を南線、小坂方面を北線とする計画があった。ちなみに鹿角には尾去沢鉱山、小坂には小坂鉱山という、当時の秋田県を代表する2鉱山があり、これを線路で結ぼうとしたことが容易に想像できる。結局は南線のみの着工、開業となった。北線が着工しなかった理由としては、延伸先の地域住民の根強い反対と、これまでに多額の建設資金をかけて工事を続けていたために秋田鉄道の経営が苦しくなっていったためとも言われる。

 この同時期の1922(大正11)年に公布された改正鉄道敷設法の中の「予定線」として、「青森県三戸ヨリ秋田県毛馬内ヲ経テ花輪ニ至ル鉄道」が設定されていたが、この時期の経営は秋田鉄道であった(国有化は1934(昭和9)年)ので、この予定線の実現性は薄かったと言われる。

(参考文献)
秋田さきがけ新聞 2008(平成20)年5月20日付記事
駅北方面(行き止まり)

駅ホームより300mほど線路が続きます。かつての待避線の名残と思われます。

車止めの先、大湯川までの300mほど築堤が続きます。
駅南方面(大館・好摩方面)

駅南にある「浜田踏切」の南方面を撮影。左が上り(鹿角花輪・盛岡方面)、右が下り(大館方面)

駅南にある「浜田踏切」の北方面(駅舎)を撮影

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