東北本線
盛岡駅敷地内の鉄道遺構

◆2010年9月26日(日)、11月6日(土)撮影
かつては、盛岡市は中規模都市でありながら国鉄の3組織(盛岡鉄道管理局、盛岡工事局、盛岡工場<現在は廃止>)がそろって存在し、さらに鉄建公団盛岡支社が存在した珍しい駅であった。

盛岡機関区
 機関区とは、機関車の運用・整備・検査・修繕、またその乗務員の管理を行う鉄道の現業部門で、かつては扱いに手間のかかった蒸気機関車を有する機関区が全国各地に配置されていた。しかし電化無煙化がすすみ、手間のかからない機関車が配備されるようになると、機関区設備は余剰となり、国鉄末期以降、全国的に廃止・整理統合が実施された。
 2002年3月、旧長町機関区と統合して仙台総合鉄道部が新設されたことにより盛岡機関区は廃止(のちに新設の「盛岡総合鉄道部」は盛岡貨物ターミナル駅構内に移転)。SL用転車台(ターンテーブル)は現在も残っているが、扇形庫は老朽化が著しく大雪等で倒壊の危険があった為取り壊され、レールも一部撤去し駐車場に転用された。さらに旧盛岡機関区跡地に残っていたレールもほとんど撤去され、かつて電気機関車が配置されていた車庫も老朽化が著しく大雪等で倒壊の恐れがある事から近年中に取り壊される予定。

奥の建物の壁に「JR貨物 盛岡機関区 施設区 電気区」とかかれています。

盛岡機関区があった頃の模型。
(マリオス展望台に展示)

同方向から撮影した盛岡機関区跡地。

転車台。これを使って蒸気機関車の方向を変えていた。
盛岡工場
 民間企業の日本鉄道株式会社が敷設していた東北本線が盛岡まで開通し、1890(明治23)年11月1日には盛岡駅が開業した。そこで鉄道車両の修繕工場が必要となり、その設置場所として宮城県仙台市長町が第一候補となった。しかし、地元農民の大反対に遭い計画は頓挫。この時、当時鉄道事務官で盛岡出身の阿部浩(後の岩手県令)は日鉄の株主であった地位を利用し、日鉄副社長の小野寺義信(小岩井農場経営者)の協力を仰ぎ、農耕機の修繕を兼ねた鉄道車両工場を現在の盛岡駅西側地区と決定した。そして翌年の1891(明治24)年8月9日に鉄道庁官営の設計施工で日本鉄道株式会社の初の鉄道車両修理工場として建設が開始された。
 工事監督に主任技手の寺井寅吉が当たり、建物の主体構造は、オランダ技師ダイアックから習得した技法をつかって煉瓦作りとし、木造小屋組切妻屋根の平屋建て、基礎は御影石、壁は煉瓦一枚半の重厚で地元で生産された煉瓦を使用し、妻側に六角窓と機関車出入りのための大きなアーチ型の開口部を配置したイギリス積の堅固な壁体となっており、内部は、高さ4.5m、直径29cmの鋳鉄製円柱18本に支えられた木造のキングポストトラスの小屋組となっていた。
 1985(昭和60)年12月に廃止されるまで94年間鉄道車両の修理に使用されてきたこの建物は、東北本線開通当時の日本鉄道近代化の曙を象徴する数少ない鉄道施設の一つであり、歴史価値の大きさからその壁面

現在では、この工場跡地に立つ盛岡地域交流センター(マリオス)内に壁面の一部が復元保存され、また鋳鉄製円柱の一本が盛岡市下町資料館に展示されている。

盛岡地域交流センター(マリオス)内の壁面に復元された盛岡工場。

盛岡市下町資料館に展示されている盛岡工場の旗(中央)と鋳鉄製円柱(右)

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