上野駅(東京都)〜黒磯駅(栃木県) 黒磯駅(栃木県)〜一ノ関駅(岩手県) 一ノ関駅(岩手県)〜盛岡駅(岩手県) 盛岡駅(岩手県)〜八戸駅(青森県)→IGR銀河鉄道線・青い森鉄道線へ 八戸駅(青森県)〜青森駅(青森県) ●利府支線 岩切駅(宮城県)〜利府駅(宮城県) (旧線区間) 東北本線旧線区間(黒磯〜白河間)(栃木県・福島県) 東北本線旧線区間(藤田〜貝田間)(福島県) 東北本線旧線区間(利府〜品井沼間)(宮城県) 東北本線旧線区間(清水原〜一ノ関間)(宮城県・岩手県) 東北本線旧線区間(平泉〜前沢間)(岩手県) 旧東北本線旧線区間(厨川〜滝沢〜渋民間)(岩手県) 旧東北本線旧線区間(金田一温泉〜目時間)(岩手県・青森県) 旧東北本線旧線区間(乙供〜千曳〜野辺地間)(青森県) 旧東北本線旧線区間(浅虫温泉〜野内間)(青森県) 旧東北本線旧線区間(野内〜青森間)(青森県) |
(概要) 東京都千代田区の東京駅から岩手県盛岡市の盛岡駅と、青森県八戸市の八戸駅から青森県青森市の青森駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。 東北本線の線区上の起点は東京駅であるが、長年にわたり東北本線の長距離・中距離列車は上野駅が始発駅となっている。上野駅は北のターミナルとして、東北本線を始め高崎線・常磐線などを経由して東北・上越地方へ向かう列車の始発・終着駅として、北へ行くには欠かせない駅となった。現在も夕方になると東北本線の寝台特急「北斗星」・「カシオペア」や高崎・上越線経由の寝台特急「あけぼの」、常磐線に至っては全日にわたって特急「スーパーひたち」などを上野駅ホームで見ることができる。 かつては、東京から青森まで、すなわち、関東地方の東京都・埼玉県・栃木県および東北地方太平洋側を貫く旧奥州街道沿いの主要都市(宇都宮・郡山・福島・仙台・盛岡・八戸など)を繋ぐ一本の路線であり、1891(明治24)年の全線開通以来、日本最長の営業キロ(739.2km 支線含まず)を持つ鉄道路線であった。長距離の特急・急行列車が多数運転されていたが、1982(昭和57)年に東北新幹線の大宮駅〜盛岡駅間が開業すると、長距離旅客輸送の役割は新幹線へと移り、並行する区間の東北本線は地域輸送が中心となった。2002(平成14)年12月1日には同新幹線の盛岡駅〜八戸駅間が開業し、その区間で並行する東北本線はJR東日本から第三セクター会社(盛岡駅〜目時駅間はIGRいわて銀河鉄道、目時駅〜八戸駅間青い森鉄道)に経営が移管され、東北本線は路線が分断された形になった。この結果、東北本線の営業キロは西日本旅客鉄道(JR西日本)の山陰本線よりも短くなり、日本で2番目に長い路線となった。さらに、2010(平成22)年12月4日に東北新幹線の八戸駅〜新青森駅間が開業した際には東北本線の八戸駅〜青森駅間も青い森鉄道に経営移管されることになっている。東北本線は東京駅〜盛岡駅間の全長535.3km(支線含まず)の路線となり、その営業キロは東海道本線も下回り在来線第3位となる。 路線名称は、当路線を建設した日本鉄道の時代は国有化直前時において仙台駅を境に本線南区・本線北区であった(現・東北地方にあたる奥羽の称は、1890年代に官設で開業した旧奥羽両国を通過する奥羽本線で使われた)。国有化後の1909(明治42)年10月12日からは、当線の主要経由地(福島県・宮城県・岩手県・青森県)の所属地方名の「東北」を冠して「東北本線」となった。前記4県は明治以前の令制国では陸奥国(奥州)にあたるが、戊辰戦争の戦後処理の一環で明治政府が出羽国と共に1868(明治元)年に分割している。そのため、民権派が(「西南」に対して)旧奥羽両国を指す新名称として明治10年代から使用し、当線の改称時には一般化していた「東北」が採用された。 (歴史) 東北本線は、1881(明治14)年に創業した日本初の私鉄である「日本鉄道」が、養蚕業の中心地から横浜港へと製品を輸送するためと、当時東西両京を結ぶ交通路として位置づけられた中山道鉄道の一部を形成するために建設された上野駅〜高崎駅〜前橋駅間の路線(現、東北本線・高崎線・上越線・両毛線)に次いで、同社の重要な中核となる路線として建設が開始された。その背景には、明治政府により東北地方・北海道の開発が推し進められており、それに必要な資材を輸送するために鉄道が必要不可欠なものと位置づけられたことがあると言われる。 そして、上野〜前橋間鉄道から分岐する形で建設される事になったが、当初その起点とする場所にはさまざまな案が出されたが代表的なものとして大宮・熊谷・浦和の3案が挙げられる。このうち特に熊谷案は、殖産興業の一環と位置づけられた製糸業の盛んな桐生・足利・佐野を通過するため、有力な候補とされた。一方、アメリカ人技師のクロフォードは宇都宮以遠への最短ルートとするため大宮を起点にすべきという意見を出した。こうした経緯から最終的に大宮・熊谷の2案が残り、鉄道局長の井上勝の決断によって現行ルートである大宮分岐案に決定した。なおそれまで、上野〜前橋間鉄道において大宮には駅が設けられていなかったが、分岐点となったことで大宮駅の開設が決定した。 建設は急ピッチで進められ、まず、1885(明治18)年7月に大宮駅から宇都宮駅間の営業が開始された。仙台区(現仙台市)付近では松島湾・塩釜港に資材を陸揚げして建設されたため、1887(明治20)年12月には仙台を越えて塩竈駅(のちの塩釜線・塩釜埠頭駅。現在の塩釜駅とは異なる)までが開通し、1891(明治24)年9月には全線が開通した。これは、現東海道本線が開通した1889(明治22)年7月からしても2年余りしか経っておらず、この路線の重要性が伺えるものであった。また、当線の営業距離は、新橋から東海道本線を経て山陽鉄道(現JR山陽本線)・岡山駅を過ぎた辺りまでとほぼ等しいが、山陽鉄道が倉敷まで開業したのが当線と同年の4月であったことを踏まえると、東京から北と西にほぼ等しい速度で鉄道が施設されていったことが分かる。なお、全通当時総理大臣を務めていた松方正義は、これによって東北が凶作でも餓死者は出ないと考え安堵したといわれる。 1900 (明治33)年に大和田建樹が作詞した『鉄道唱歌』第3集奥州・磐城編では、東北本線と常磐線の開通を以下のように祝って歌っている。 40番「勇む笛の音いそぐ人 汽車は着きけり青森に むかしは陸路廿日(はつか)道 今は鉄道一昼夜」 63番「むかしは鬼の住家とて 人のおそれし陸奥(みちのく)の はてまでゆきて時の間に かえる事こそめでたけれ」 64番「いわえ人々鉄道の ひらけし時に逢える身を 上野の山もひびくまで 鉄道唱歌の声立てて」 戦後になると電化・複線化が推し進められるようになり、1968(昭和43)年10月に完成した。この時国鉄では、「ヨンサントオ」と通称される白紙ダイヤ改正を実施している。 |