東京駅の0キロポスト(起点標)と首相遭難場所
(2011年2月19日(土)、10月7日(金)、2012年8月12日(日)撮影)
鉄道路線の起点からの距離を示すのは距離標(キロポスト)と言いますが、起点を表すのは起点標(0キロポスト)と呼ばれ、それぞれの起点に設置されています。
東京駅には、中央線、東北本線、東海道本線・東海道新幹線、東北新幹線、総武本線の0キロポストが設置されています。
そのうち、東海道本線は旧新橋駅より、中央本線は旧万世橋駅からうつされました。
中央本線

1番線(中央線高架ホーム)脇にある0キロポスト

2番線(中央線高架ホーム)壁面に取り付けられている0キロポスト。
東海道本線・東北本線

3番線脇に立つ0キロポスト
現在は京浜東北線しか発着しないが、東海道本線と東北本線という2大路線の起点です。

4・5番線(山手線)の間にある0キロポスト「起点 国鉄キロ程基準原標」。を記念して立てられたブロンズ製で、0下のプレートには
「起点国鉄キロ程基準原標
昭和44年12月20日作成
東京駅開業55周年記念」
と記されています。よくテレビで取り上げられるのがこれ。

6(京浜東北線南行)・7(東海道本線)番線の間に立つ0キロポスト。JRの刻印の下に「JUNE 23 1996」と刻まれています。
京葉線(東京~蘇我(千葉県)間)

京葉線のホームは、東京駅から一番遠いはずれにあり、移動が大変です。
(2011年10月7日(金)撮影)
東海道新幹線・東北新幹線

東海道本線ホームに設置された「新幹線起点」標(1)。

東海道本線ホームに設置された「新幹線起点」標(2)。真ん中に「新幹線起点」と刻まれているのがわかります。

15番線と16番線の間の線路脇に設置されたモニュメント。これが実質的な0キロポストです。

20番・21番線ホーム上にある東北新幹線の0キロポスト。
「0 Km POINT」と刻まれています。
浜口首相遭難現場

濱口雄幸首相の遭難現場そばの柱に埋め込まれたプレート。濱口雄幸(1870~1931)は第27代内閣総理大臣(任期1929~1931)で、謹厳実直な性格で、その風貌から「ライオン宰相」と国民から親しまれた。世界大恐慌で混乱した経済を立て直すために金解禁や緊縮財政を断行。しかし、緊縮財政の一環として行われた軍縮、特に1930(昭和5)年に調印されたロンドン海軍軍縮条約は、内容が日本に著しく不利であると攻撃され、ついに憤慨した右翼青年によってこの東京駅で狙撃されてしまう。

以下、プレート文より引用。
「昭和5年11月14日午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットホームを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向ったが翌昭和6年8月26日死去した。犯人は、立憲民主党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行におよんだものとされている。」

場所は、八重洲中央地下入口から、東北・上越新幹線のりば改札手前の所にある。
原首相遭難現場
(2012年8月12日(日)撮影)

丸の内南口、現在の券売機の近くに原首相遭難現場があります(写真中央下の○がその現場を示す)。

以下、プレート文より引用。
「大正10年11月4日午後7時20分、内閣総理大臣原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向っていた。そのと き、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長(初代)の肩をかすめ、いきなり刃わたり5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した。原首相はそ の場に倒れ、駅長室で手当を受けたが、すでに絶命していた。犯人は、原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述し、背後関係は不明であった。」



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