開業:1887(明治20)年12月15日 所在地:福島県二本松市本町二丁目262 キロ程:250.3km(東京起点) |
駅名由来 昔、東安達の山あいに「六本の霊松」と呼ばれる松があり、その地は「六本松」と呼ばれていました。ある日、西安達の人が、このうちの二本を掘り起こして西安達に移植してしまいました。それからこの地は「四本松」と呼ばれ、西安達には新たに「二本松」という地名が生まれたということです。 こんなお話もあります。・・・都に住んでいた病弱な姫君が、出羽国へ嫁ぐ途中、疲れ果てて随行の老女とともにこの地で亡くなってしまいました。あわれに思った里の人々は、塚を掘ってふたりを弔いました。ところが、その塚から、二本の松が芽吹き、見るまに成長し、やがて霊松と呼ばれる大木にまでなったといいます。以来、この付近は「二本松」と呼ばれるようになったとか。 この地名の由来を受けて、明治二〇年(一八八七)十二月十五日、東北本線が当地に開通した時、二本松駅が開業しました。(現地案内板より) その他 駅舎は二本松城を模して造られている。 ※参考、引用サイト:Wikipedia |
駅名標(1) 駅名標(2) 駅名標(1) (2022年10月23日(日)撮影) |
駅舎(待合所)(北側) 駅舎(待合所)(北側) (2022年10月23日(日)撮影) 駅舎(待合所)(南側) (2022年10月23日(日)撮影) |
上り(黒磯方面) |
下り(一ノ関方面) |
駅前(北口)(1) (2022年10月23日(日)撮影) |
駅前(北口)(2) (2022年10月23日(日)撮影) |
駅前(南側)(1) (2022年10月23日(日)撮影) |
駅前(南側)(2) (2022年10月23日(日)撮影) |
駅舎(待合所)内(1) (2022年10月23日(日)撮影) |
駅舎(待合所)内(2) (2022年10月23日(日)撮影) |
名所案内板(1) |
名所案内板(2) |
二本松藩は、織田信長の重臣であった丹羽長秀の孫が立藩し幕末まで続く。 この銅像は、幕末の戊辰戦争の時に二本松城で政府軍に頑強に抵抗した少年隊士を記念して作られたもの。 |
名所案内板(1) (2022年10月23日(日)撮影) |
駅名由来板 |
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跨線橋には古レールが使用されていますが、刻印の摩耗とペンキの厚塗りで判別できたものは少ないです。 (2022年10月23日(日)撮影) |
右は「(S) 60 A 1929 IIIIIIIIIIII」の刻印が確認でき、1929年12月製の八幡製鉄所で製作された古レールとわかります。 左は後述しますが、刻印が長くて画像が切れてしまっています。 (2022年10月23日(日)撮影) |
もう少し引いて撮影。 (2022年10月23日(日)撮影) |
今度はもう少し上を撮影。 左の写真とあわせると「OTARU 工 MADE IN <CONSTECO> USA OH LACKAWANNA 600 6 1922」の刻印が確認出来、1922年製のアメリカのラッカワンナ鋼鉄会社で製造された古レールとわかります。 (2022年10月23日(日)撮影) |
「(切断) A 1929 (切断)」の刻印が確認でき、おそらく1929年製の八幡製鉄所で製作された古レールとわかります。 (2022年10月23日(日)撮影) |
「30 (S) 193? IIIIIIIII」の刻印が確認でき、193?年9月製の八幡製鉄所で製作された古レールとわかります。 (2022年10月23日(日)撮影) |
左は「(S) 60 A 192?」の刻印が確認でき、192?年製の八幡製鉄所で製作された古レールとわかります。 右は「(S) 60 (以下摩滅)」の刻印が確認でき、年製不明のおそらく八幡製鉄所で製作された古レールとわかります。 (2022年10月23日(日)撮影) |
左は「(S) 60 A 192(隠)」の刻印が確認でき、192?年製の八幡製鉄所で製作された古レールとわかります。 右は「(隠)OH LACKAWANNA (摩滅)」の刻印が確認出来、年製不明のアメリカのラッカワンナ鋼鉄会社で製造された古レールとわかります。 (2022年10月23日(日)撮影) |
「OTARU 工 MADE IN <CONSTECO> (切断)」の刻印が確認出来、年製不明のアメリカのラッカワンナ鋼鉄会社で製造された古レールとわかります。 (2022年10月23日(日)撮影) |
「THYSSEN 1923 60 LbS ASCE」の刻印が確認でき、1923年製のドイツのティッセン社で製作された古レールとわかります。 (2022年10月23日(日)撮影) |